鴨下 和也
結婚するまで、食べ物の好き嫌いがあることに気づきませんでした。保因者である両親も食べ物の好き嫌いがあったので、それが普通だと思っていました。母方の家系は食べ物の好き嫌いが激しいのですが、検査を受けたのは母だけなので、母方の家系にシトリン欠損症がいるかどうかはわかりません。父方の家系はあまり強い嗜好はなく、お酒をよく飲みます。
日本では、シトリン欠損症は実際に症状が出ない限り難病に分類されない。だから、風邪をひいただけでも莫大な医療費がかかる。例えば近くの小さな診療所に行って『シトリン欠損症です』と言っても、そもそも医師がシトリン欠損症を知らないから診てもらえない。だから大学病院に行くしかない。しかし、そうすると診断のために、たとえただの風邪であっても、その症状がCDが原因であることを除外するためにあらゆる検査をする。 検査にかかる費用は、一般的な風邪の人の何倍もかかる。だから、私は今でもできるだけ風邪をひかないようにしているし、コロナの制限は緩和されたものの、いまだにマスクをしている。
私の兄は小児てんかんと診断され、生涯治療を受けてきました。大人になってから、私と妻は兄の症状がてんかんではなさそうだと気づき、尿素生成検査と精密検査の結果、CTLN2であることが確認されました。その頃、彼の精神症状は強く現れていた。
生まれたとき、彼は母乳を飲むことができなかった。子供の頃は乳糖の入っていないミルクを飲んでいた。下痢や黄疸があったが、両親はあまり気にせず、3歳くらいになると症状は落ち着いた。小学生になると、てんかんを起こすようになった。
彼は印刷業を営んでおり、昼夜を問わず働いていたが、疲れ方が異常だった。よく眠り、なかなか起きない。怒りっぽく、物忘れも激しかった。しかし、保因者である母や私自身も物忘れがひどいので、それが普通だと思っていた。妻と結婚して、それも普通ではないと気づいた。学校のテストではそれなりに良い点数を取っていたが、集中力がなく、人の話をずっと聞いているのが苦手だった。
2011年12月29日、彼は忘年会で(普段は飲まない)グラス2杯のアルコールを飲んだ。それ以来、彼の体調は急速に悪化し始めた。その5日後、私と妻が正月に帰省したとき、彼が何を言っているのか理解できなかった。牛乳をこぼし、箸で食べ物をつかむことができず、酒を飲んでいないのに常に酔っているようだった。私たちは病院に連れて行こうとしたが、母は彼の行動におかしなところはないと言って断った。
数日後、兄と直接話し、一緒に病院に行った。脳ドックの予約を取り、その日は帰った。ところが、次の検査の前にまた異変が起きた。夜中にトイレに行きたがり、自分の部屋の中をぐるぐる回ったり、冷蔵庫のドアを開けてトイレの電気をつけようとするようになったのだ。それでも母は、夢遊病だと言って救急車を呼ばなかった。
2012年1月中旬、彼は脳ドックのために再び病院に行った。帰宅後、具合が悪くなり、救急車で病院に運ばれた。高アンモニア血症が疑われ、何の説明もないまま高濃度輸液が行われた。それから30分から1時間後、彼は昏睡状態に陥った。そのときの輸液が何であったかはいまだにわからないが、それが彼を昏睡状態に陥れたのだと思われる。私たちは原因が単なる高アンモニア血症であることに納得がいかず、再度検査を依頼した。そこでシトリン欠損症と確定診断された。
その後、亡くなるまで覚醒と昏睡を繰り返した。シトリン欠損症だとわかったとき、肝臓はすでに末期状態で、肝臓移植しかないと言われた。私たちは移植の準備をしたが、ドナーを見つけるのは難しかった。
信州大学を紹介された。2012年3月のことだった。アルギニンを投与され、肝臓移植のドナーが見つかるまでの間、食事管理を行った。冷蔵庫に鍵をかけるという案もあったが、そこまではしなかった。しかし、冷蔵庫を開けて中に入っているものを何でも食べてしまうことがあった。無意識のうちに食べていたようだ。その年の秋頃、もう手の施しようがないと言われ、最期の看取りのために病院を紹介された。そして、転院から数ヵ月も経たないうちに息を引き取った。
彼は生前、自分の体が未来の子供たちや患者様たちのために役に立つのなら、シトリン欠損症の研究に使ってほしいと語っていた。だから、サンプルは今も保管されている。きっと彼もシトリン財団の設立を喜んでいることだろう。
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