カーソン カワバタ
モハメド・アリの言葉に「リスクを冒す勇気のない者は、人生において何も成し遂げられない」というものがあります。
僕はカーソン カワバタです。現在17歳で、ユタ州のソルトレイクシティに住んでいます。2005年3月16日に生まれました。生後は軽い黄疸がしばらく続きましたがかかりつけの小児科医は2歳から約1年成長が止まる時まで特に処置はしませんでした。その後赤血球数からサラセミアや鎌状赤血球症を調べるようになりました。3歳になると面倒をみてくれていた曾祖母に食べたいものを伝えられるようになりました。毎日のおやつの定番は、ゆで卵4個、チーズ4食分、牛乳900ml、フルーツでした。シトリン欠損症とは知らずに自己管理していました。
幼い頃から自己管理ができていたため毎年の検査結果は正常で、小児科医は当初の問題の原因究明をやめていました。曾祖母が好きなものを好きなだけ食べさせてくれたのが幸いしました。両親によると乳児期僕はお腹が空いたらすぐにミルクをもらわないと泣き叫んでいたそうで、祖母はそうならないよう、早めにミルクを用意してくれていたそうです。
幼少期
幼稚園の頃、僕は人見知りで一つのことに長時間集中する傾向があったので、両親や先生から少し心配されました。例えば、3歳の頃から100ピースのパズルを完成させていました。端からではなく、好きなところから順番に組み立てていくスタイルでした。赤ちゃんの頃は、知らない人が近づくと寝たふりをしていたので家族はよくからかっていました。学校ではとても背が低かったので周りになじめず、どうしたら友達ができるのかわかりませんでした。野球、サッカー、バスケットボールなど、いろいろなスポーツに挑戦したものの、内気な性格からその頃は得意ではありませんでした。
大家族でしたので家は楽しく幸せな場所でした。色々な仕組みを考えたり、ポケモンやポケモンの特性を覚えたりするのが好きでした。生後6カ月から4歳まで、よく旅行に行ったので、幼い頃からiPodを持っていました。曾祖母はサンフランシスコ、シカゴ、カリスペル、そして東京と世界各地で仕事をしていて、よく母と僕を連れていってくれました。
幼少期からのユニークな特徴
幼稚園の終わり頃、先生と両親は、僕がいつもひとりで、友達と遊ぼうとしない事が顕著だったことを心配し、検査をすることにしました。検査の結果高機能アスペルガー症候群の特徴がいくつか出てきましたが一致しない項目も多く、心理士の目にも決定的とは映りませんでした。念のため学校には報告書を提出し、書類も用意しました。
毎年定期的に小児科医の診察を受け、経過観察も続けました。この頃はよくお絵描きや長時間なにかに専念していました。また視覚からの記憶を絵で再現することができました。
6歳の時にシトリン欠損症と診断される
僕が6歳の時、妹がセントマークス病院で生まれました。僕が生まれた1年後の2006年から実施されるようになった新生児スクリーニングやその後のDNA検査などで妹はシトリン欠損症と診断されました。その時僕もシトリン欠損症であることと両親が保因者であることも判明しました。それで子どもの頃から食生活が乱れていたことに納得がいきましたが、既に高タンパク低炭水化物の自己管理ができていたため、診断後も食生活を大きく変えることはありませんでした。しかし、両親は僕の食事をチェックし、必要な食事について周囲に説明するようになりました。州内と近隣の州のシトリン欠損症の子供は僕と妹だけだったため、シトリン欠損症をどう対処するかは早い段階で「推測」する必要がありました。
食事と運動
数年後、僕はより活動的になり、さらに「自分の体に耳を傾ける」ことを学ばなければなりませんでした。僕は炭水化物でお腹がいっぱいにならずタンパク質は体内であまり長く持たないので食欲が旺盛でした。アスリートとしては、7歳からサッカー、野球、バスケットボール、ゴルフをやり、格闘技も習っていました。幼い頃、ゴルフ場でプレーしていたのですが、プレーが突然とても不安定になったのです。その異変に気づいた叔母が、僕をクラブハウスに急行させ、ハーフポンドハンバーガーを注文してくれたのです。10分もしないうちに、僕はコースで元通りのプレーをすることができました。
このような経験から、体内で低タンパクになった際に体がどのように反応するのかがよくわかり、年齢や経験を重ねるにつれて、より上手に管理することができるようになりました。特にゴルフ大会(5時間)では、時間やエネルギーを必要とするため、タンパク質の摂取量を調節しなければなりませんでした。大会を乗り切るために、僕はオートミール1カップ、低脂肪牛乳340 mL、チョバニ・ギリシャ・ヨーグルト個、ビタミン、MCTオイル、L-アルギニンを朝食時に食べました。昼食は、大きめに切った惣菜の肉5〜6枚にチーズ2枚、レタス、マヨネーズを挟んだサンドイッチを食べました。ゴルフの大会中は、コストコのプレミアプロテインシェイクを3杯、それぞれ30グラムのタンパク質を飲んでいます。5ホールごとに1杯、つまり約90分ごとに飲んでいます。夕食には、230~340gのタンパク質(牛肉、鶏肉、魚)と蒸し野菜、サラダを食べます。誕生日やお祝いの日には、たまにアイスクリームを食べます。
小学生時代の長所と短所
小学生の頃、両親と僕は、僕の長所と短所、そして僕の体調や食生活がどう影響しているかについて、色々と学びました。例えば、僕は昔から視覚的な記憶が強く、画像や文字を暗記することができました。これは、3歳のときに100ピースのパズルをする不思議な能力からも見て取れます。また、計算式や数式を暗記することができたので、生まれつき算数が得意でした。
しかし、友達を作るのが苦手で、自分の考えを整理して伝えることが苦手でした。実は、昔から機械的に読むこと(ルールを覚えること)はできたのですが、読解が苦手で、それがどうしても年齢を重ねるごとに自信喪失に繋がっていました。この頃、美術やピアノ、テコンドー、ゴルフなども好きになっていました。僕はまだ他の子どもたちよりも体が小さく、集団行動に興味がなかったため、これらの活動は僕のストレス解消になりました。幸運なことに、僕は小さな私立学校に通っており、先生方も僕の体の状態を理解してくれていて、社会的な困難にも快く対応してくれました。両親は、弱さや失敗は悪いことではなく、それを改善する努力をし、同じ失敗を繰り返さないようにすればいいのだと、励ましてくれました。
中学生時代
中学生になったとき、僕はこれをチャンスととらえ、より多くの人と出会い、成長し続けました。最初は順調で、6年生になると友達も増え、学校の成績もとても良くなりました。しかし、相変わらず失敗から学ぶことが多かったです。うまくいっていたのは、7年生のときに曾祖母を亡くしたときまでです。彼女は僕にとって偉大な理解者であり、僕が自信と強さを感じられるようにしてくれた人です。曾祖母から学んだことが、今の僕の一番の支えになっています。
彼女を失ったとき、僕は自分自身を失ったような気がしました。再び自分を見つけるには、かなり時間がかかりました。長いジェットコースターのような感情と、未知の世界に迷い込んでしまったのです。このことは、僕の状態を管理するためのもうひとつの側面につながっています。タンパク質の摂取がない状態が長く続くと、僕は「低タンパク」状態になります。体がだるく、無気力になってしまうのです。また、衝動的に行動してしまい、ひどい失敗をしたこともあります。そんな時は、感情に支配された別人のような感覚に陥ります。このような失敗から立ち直るには長い時間がかかりましたが、幸いにもタンパク質の量を管理する方法を学び、年齢と経験を重ねるにつれて、そのようなことは少なくなりました。
8年生になった僕は、人間として、読者として、作家として、自分自身をより深く学び続けました。小学生の頃、物語を暗記していた時にどれだけ練習不足だったかを判断することは難しいです。中学はもっと大変で、読解力はまだ遅れていると自覚したとき、不安が大きくなりました。読書が得意だと見せようと、読んでいる本について嘘をついている自分に気がついたのです。自分の能力を偽ることが正しい答えでないことはすぐにわかりました。先生や家族がレッスンを通して助けてくれたので、僕は自信を取り戻すことができました。また、中学時代には素晴らしい友情関係を作り上げると同時に残念な別れも経験しました。学校での人付き合いは常に少し困難なもので、それは高校時代へと続きました。そんな中でも、数学と科学、そして課外活動やスポーツで、僕は成長し続けました。
高校生活
9年生への進級は問題なくできました。再出発という感じでした。しかし、まだ何か物足りなさを感じていました。ゴルフの代表チームに入り、シーズンのほとんどは2位を保ちながら過ごしました。しかし、体格や読み書きなどの処理速度、タンパク質の管理ができていないときの衝動的な行動などが不安材料となり、自分のアイデンティティに苛立ちや戸惑いを感じているとは思いもしませんでした。僕は、自分ではない誰かになろうとしている自分に気づきました。ある時、他の誰かになろうとすることに罪悪感を覚えたため、仲の良い友達を何人か失いました。その結果、成績は落ちましたが、次の学期には元に戻る事ができました。1年生の半ばに新型コロナが流行するまでは、良い方向に向かっていました。
10年生の始めには、ジェットコースターのような感情や学習からようやく立ち直ったと、大きな期待を寄せていました。しかし、新型コロナの制限が続き、対面とリモート学習を交互に行う授業スケジュールの中で、僕はまだ学校や友達との事で、悩まされていることに気がつきました。2021年3月、今までにない感覚を覚え、その時に解離を感じ、”なぜ自分にこのシトリン欠損症が与えられたのか?”と疑問を持ちました。僕の気持ちや状況を他の生徒から聞いた学校は、精神的なサポートカウンセリングを勧めました。夏が訪れる数週間前カウンセリングを受けてみたりもしました。しかし、テコンドーの師匠や両親、家族の指導やサポートにより、自分の考え方を変えることにしました。この2年間で、僕は「低タンパク」に陥った時も、自分の感情を上手にコントロールできるようになりました。好きなことを楽しむ時間も増え、自分という人間をよりよく理解できるようになりました。
実績と受賞歴
様々な挑戦や学習がありましたが、僕は長年にわたり、いくつかの賞や個人的な達成を果たしてきました。10年間のトレーニングの後、テコンドー黒4段を取得しました。僕は、格闘技を通してライフスキルを学ぶ他の武道家たちを教えるボランティアをしています。僕は複数の国際大会に出場し、金、銀、銅メダルを獲得し、大きな演武会に参加していました。
僕は4年間、男子バレーボールチームに所属し、全州セカンドチームとして表彰されました。ユタ州のファースト・ティのボランティアコーチを務め、今年はモンタナで開催されるリーダーシップサミットに参加することが決まりました。アクリル画は地元の動物園の絵画展で入選したことがあり、そのうちの1枚で青少年賞を受賞しています。総じて、僕はシトリン欠損症であることを受け入れています。しかし、そのために努力を怠ることなく、これまでに多くのことを成し遂げてきました。
まとめ
僕は自分の話を共有し、まだ未知のシトリン欠損症を持って成長することは本当に大変なことだということを、他の人たちに知ってもらいたいと思いました。また、シトリン財団は、僕の経験談を広めてくれ、この病気の背後にある科学についてもっと学ぶ機会を提供してくれています。また僕自身と僕の頑張りををサポートしてくれています。僕は、シトリン財団が治療法を見つけ、シトリン欠損症の幼い子どもたちへの影響を減らすことに関心があります。教育や共有を通じて、より多くの人にこの欠損症について知ってもらいたいと思います。個人的な意見ですが、シトリン欠損症の影響がより文書化され、検証され、最終的に治癒することができれば、僕のような人々にとって非常に嬉しいことだと感じています。僕は、シトリン欠損症やその他の代謝異常の患者さんにとって最善の方法を明らかにするために研究を続ける医師を支援したいです。そのために、コンピューターサイエンスのスキルをさらに高めることで貢献したいと考えています。
将来のプロジェクト
ここ数年、シトリン欠損症の患者が食事の記録を取り、医師がその記録を管理できるような、研究に基づいたアプリを企画・開発しようとしています。食事の記録は、患者さんが食事や薬の効果を実感するためにとても重要なので、子供たちが自ら食事記録をしたいと思えるような方法を見つけたいです。このような思いから、僕は困難に直面した人々を助けることが、人生の大きな原動力であることに気づきました。なぜ自分が長期にわたる希少な欠損症に陥ったのか理解できずに苦しんでいる人たちに、僕は多くの点で共感することができます。
僕の体験談が何らかのヒントや希望につながることを願っていますが、それよりも僕たち全員が力を合わせて変化をもたらし、治療法を見つけるまたは少なくとも治療法が見つかるまでリスクを減らす必要があります。僕はこれまで数え切れないほどの失敗をしてきましたし、おそらくこれからも失敗し続けるでしょう。しかし、暗闇の中で孤独を感じるとき、やがて光が見えてくることを僕は知っています。なぜなら、僕は自分が希少疾患であることを受け入れ、他の人を助けたいと思うようになったからです。自分が未知の世界を乗り越えてきたからこそ、人を助けることができると思っているからです。このアプリの開発で誰かの役に立てれば、それが患者さんと医師を結びつけるものになる可能性があるのであれば、うれしく思います。この先、研究や時を経て、シトリン欠損症の治療法が見つかるといいなと思っています。
お読みいただきありがとうございました!
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