カーソン・カワバタとインタビュー
概要 このインタビューでは、シトリン財団の患者エンゲージメント・プログラムマネージャーのシェイマが、カーソン・カワバタさんにシトリン欠損症の患者として抱える課題についてお話を伺いました。インタビューを通して、カーソンさんは「アイデンティティ」と「コミュニティ」というテーマについて触れています。 カーソン・カワバタインタビュー (読みやすさのため、一部編集しております) シェイマ: まずは、ご自身のことを少しお聞かせください。お名前と、ご自身の症状の管理方法について少しお聞かせください。 カーソン: 私の名前はカーソン・カワバタです。米国ユタ州、ソルト・レイク・シティーに住む18歳の高校3年生です。私はかなり小さな学校に通っていて、それが自分の症状を管理する上で大きな役割を果たしていると思います。 私は学校で、幸運にもこの4年間、高校のゴルフ部で競技をすることができました。チームとしてその集合体を作り上げ、なおかつ競い合うというのは、本当に素晴らしい経験だったと思います。たとえ強豪校ではなくても、本当にいい経験だったと思います。 学校以外では、武道もやっています。テコンドーの黒帯を持っています。10年間やっていますが、今は本当に長い間やっているので、トレーニングというよりも、より先生らしくなってきました。これらは私が学校以外の課外活動として行ってきたことのほんの一部です。これらすべての課外活動は、自分のコンディションを管理するための土台を作るのにとても役立っていると思います。 とはいえ、私が成功するために必要なのは、サポートシステムの存在だと言えます。私がシトリン欠損症と診断されたのは、6歳のときでした。そして、その診断にかかわらず、具体的に何をすればいいのかがわからず、医師も私を診断するのに苦労していました。それなので、いつも試行錯誤の繰り返しでした。今振り返ってみると、このような実験的な時期というのはあまり意識していなくて、ただ家族が自分の体の声に耳を傾けることを許してくれているようなものだったと思います。 診断される前、私は祖母にたくさん育てられました。祖母は、私がいつ、どのくらい食べる必要があるのかを学ぶのを助けてくれました。私が話すことができるようになる前、私が祖母に向かって叫んでいたため、好ましい方法ではないですが、そのような方法で祖母は学びました。何度か繰り返すうちに、祖母は日課を作り上げました。私が食べ物を全部食べられるようになる前は、私が叫ぶ30分ほど前にミルクを用意してくれていたのです。その習慣は、私の人生の中でずっと続いています。現在も、2時間おきにプロテインシェイクを飲んでいます。 まとめると、私の家族は本当に強い基盤を作ってくれたのだと思います。あまり、管理をしているという意識はなく、両親や、祖父母が多くのものを与えてくれたと感じています。自分の体調を管理できていると感じられるようになれば、もっと成功するような気がしています。 シェイマ: チームワークが良かったようですね。共有してくれてありがとうございます。日常やこれまでの管理方法について聞くのは本当に興味深いですね。何歳頃からご自身の疾患について理解できたと感じますか? カーソン: 私がちょっと言い忘れていたのは、2歳か3歳のとき、私は成長していなかったということです。つまり、私は非常に大きな成長段階を逃したのです。これは、私がもっと若かった頃に苦労したことの1つで、必ずしも自分の欠損症と結びついていたとは思っていなかったのです。 大人になってから、学校で科学研究のプロジェクトがあり、自分の欠損症について調べてみることにしました。その時、母がシトリン財団の本を買ってきてくれたんです。少し目を通しただけで、正直なところ、あまり理解できなかったのですが、良い方向への一歩になったと思います。それ以来、感情面も少し理解できるようになりました。 家族の中で使っている言葉として、私が食事をとらずにいる時間が長すぎることを「低タンパク」と言っています。そのような状態になると、本当に無気力になってしまうのですが、特に内気な子供だった私は、そのようなとき、なかなか声を出すことができませんでした。大人になるにつれて、タンパク質が不足すると、判断力が鈍るということが分かってきたんです。だから、今思えば、そうなる前に自己管理に力を入れたいと思ったんです。というのも、正直なところ、私はタンパク質が少ないときに、何度も低調になっていたことがあるんです。 今となっては、タンパク質不足だけが原因で低調になったとは思いたくありません。ただ、例えばタンパク質が少ないのか、他の原因で不安なのかの区別がつきにくくなったのは確かです。 しかし、タンパク質不足をより感情的なレベルで理解するようになったことで、自分自身をより意識することができるようになったと思います。大人になってからもタンパク質が不足することはありますが、失敗することへの不安は確実に減りました。ゴルフで苦労したのは、タンパク質の量がプレーに影響するだけでなく、自分のゴルフのスコアに嘘をつく傾向があったことです。特に、集中力が低下していたので、苦労しました。全体的に言えることは、タンパク質が少ないと、弱気になりやすいということです。私の人生の大半は、観察と反省に基づいて理解されていますね。 シェイマ: さまざまな側面に触れていますね。シトリン欠損症で育ったことは、人間関係にどのような影響を与えたと感じますか?希少疾病を持つということは、それ自体が非常にユニークな経験です。そして、特にシトリン欠損症であることも、その中で非常にユニークな経験です。 そのことが、あなたの成長にどのような役割を果たしたとお考えですか? カーソン: 先ほども言ったように、小学生の頃はシトリン欠損症と身長を関連付けて考えることが多かったですね。同級生の多くが私より背が高かったので、ある程度は、私が内気だった理由の1つとも言えると思います。正直なところ、自分が珍しい病気だという認識はあまりなかったんです。 [...]
カーソン カワバタってどんな人?
カーソン カワバタ モハメド・アリの言葉に「リスクを冒す勇気のない者は、人生において何も成し遂げられない」というものがあります。 僕はカーソン カワバタです。現在17歳で、ユタ州のソルトレイクシティに住んでいます。2005年3月16日に生まれました。生後は軽い黄疸がしばらく続きましたがかかりつけの小児科医は2歳から約1年成長が止まる時まで特に処置はしませんでした。その後赤血球数からサラセミアや鎌状赤血球症を調べるようになりました。3歳になると面倒をみてくれていた曾祖母に食べたいものを伝えられるようになりました。毎日のおやつの定番は、ゆで卵4個、チーズ4食分、牛乳900ml、フルーツでした。シトリン欠損症とは知らずに自己管理していました。 幼い頃から自己管理ができていたため毎年の検査結果は正常で、小児科医は当初の問題の原因究明をやめていました。曾祖母が好きなものを好きなだけ食べさせてくれたのが幸いしました。両親によると乳児期僕はお腹が空いたらすぐにミルクをもらわないと泣き叫んでいたそうで、祖母はそうならないよう、早めにミルクを用意してくれていたそうです。 幼少期 幼稚園の頃、僕は人見知りで一つのことに長時間集中する傾向があったので、両親や先生から少し心配されました。例えば、3歳の頃から100ピースのパズルを完成させていました。端からではなく、好きなところから順番に組み立てていくスタイルでした。赤ちゃんの頃は、知らない人が近づくと寝たふりをしていたので家族はよくからかっていました。学校ではとても背が低かったので周りになじめず、どうしたら友達ができるのかわかりませんでした。野球、サッカー、バスケットボールなど、いろいろなスポーツに挑戦したものの、内気な性格からその頃は得意ではありませんでした。 大家族でしたので家は楽しく幸せな場所でした。色々な仕組みを考えたり、ポケモンやポケモンの特性を覚えたりするのが好きでした。生後6カ月から4歳まで、よく旅行に行ったので、幼い頃からiPodを持っていました。曾祖母はサンフランシスコ、シカゴ、カリスペル、そして東京と世界各地で仕事をしていて、よく母と僕を連れていってくれました。 幼少期からのユニークな特徴 幼稚園の終わり頃、先生と両親は、僕がいつもひとりで、友達と遊ぼうとしない事が顕著だったことを心配し、検査をすることにしました。検査の結果高機能アスペルガー症候群の特徴がいくつか出てきましたが一致しない項目も多く、心理士の目にも決定的とは映りませんでした。念のため学校には報告書を提出し、書類も用意しました。 毎年定期的に小児科医の診察を受け、経過観察も続けました。この頃はよくお絵描きや長時間なにかに専念していました。また視覚からの記憶を絵で再現することができました。 6歳の時にシトリン欠損症と診断される 僕が6歳の時、妹がセントマークス病院で生まれました。僕が生まれた1年後の2006年から実施されるようになった新生児スクリーニングやその後のDNA検査などで妹はシトリン欠損症と診断されました。その時僕もシトリン欠損症であることと両親が保因者であることも判明しました。それで子どもの頃から食生活が乱れていたことに納得がいきましたが、既に高タンパク低炭水化物の自己管理ができていたため、診断後も食生活を大きく変えることはありませんでした。しかし、両親は僕の食事をチェックし、必要な食事について周囲に説明するようになりました。州内と近隣の州のシトリン欠損症の子供は僕と妹だけだったため、シトリン欠損症をどう対処するかは早い段階で「推測」する必要がありました。 食事と運動 数年後、僕はより活動的になり、さらに「自分の体に耳を傾ける」ことを学ばなければなりませんでした。僕は炭水化物でお腹がいっぱいにならずタンパク質は体内であまり長く持たないので食欲が旺盛でした。アスリートとしては、7歳からサッカー、野球、バスケットボール、ゴルフをやり、格闘技も習っていました。幼い頃、ゴルフ場でプレーしていたのですが、プレーが突然とても不安定になったのです。その異変に気づいた叔母が、僕をクラブハウスに急行させ、ハーフポンドハンバーガーを注文してくれたのです。10分もしないうちに、僕はコースで元通りのプレーをすることができました。 このような経験から、体内で低タンパクになった際に体がどのように反応するのかがよくわかり、年齢や経験を重ねるにつれて、より上手に管理することができるようになりました。特にゴルフ大会(5時間)では、時間やエネルギーを必要とするため、タンパク質の摂取量を調節しなければなりませんでした。大会を乗り切るために、僕はオートミール1カップ、低脂肪牛乳340 mL、チョバニ・ギリシャ・ヨーグルト個、ビタミン、MCTオイル、L-アルギニンを朝食時に食べました。昼食は、大きめに切った惣菜の肉5〜6枚にチーズ2枚、レタス、マヨネーズを挟んだサンドイッチを食べました。ゴルフの大会中は、コストコのプレミアプロテインシェイクを3杯、それぞれ30グラムのタンパク質を飲んでいます。5ホールごとに1杯、つまり約90分ごとに飲んでいます。夕食には、230~340gのタンパク質(牛肉、鶏肉、魚)と蒸し野菜、サラダを食べます。誕生日やお祝いの日には、たまにアイスクリームを食べます。 小学生時代の長所と短所 小学生の頃、両親と僕は、僕の長所と短所、そして僕の体調や食生活がどう影響しているかについて、色々と学びました。例えば、僕は昔から視覚的な記憶が強く、画像や文字を暗記することができました。これは、3歳のときに100ピースのパズルをする不思議な能力からも見て取れます。また、計算式や数式を暗記することができたので、生まれつき算数が得意でした。 しかし、友達を作るのが苦手で、自分の考えを整理して伝えることが苦手でした。実は、昔から機械的に読むこと(ルールを覚えること)はできたのですが、読解が苦手で、それがどうしても年齢を重ねるごとに自信喪失に繋がっていました。この頃、美術やピアノ、テコンドー、ゴルフなども好きになっていました。僕はまだ他の子どもたちよりも体が小さく、集団行動に興味がなかったため、これらの活動は僕のストレス解消になりました。幸運なことに、僕は小さな私立学校に通っており、先生方も僕の体の状態を理解してくれていて、社会的な困難にも快く対応してくれました。両親は、弱さや失敗は悪いことではなく、それを改善する努力をし、同じ失敗を繰り返さないようにすればいいのだと、励ましてくれました。 中学生時代 中学生になったとき、僕はこれをチャンスととらえ、より多くの人と出会い、成長し続けました。最初は順調で、6年生になると友達も増え、学校の成績もとても良くなりました。しかし、相変わらず失敗から学ぶことが多かったです。うまくいっていたのは、7年生のときに曾祖母を亡くしたときまでです。彼女は僕にとって偉大な理解者であり、僕が自信と強さを感じられるようにしてくれた人です。曾祖母から学んだことが、今の僕の一番の支えになっています。 彼女を失ったとき、僕は自分自身を失ったような気がしました。再び自分を見つけるには、かなり時間がかかりました。長いジェットコースターのような感情と、未知の世界に迷い込んでしまったのです。このことは、僕の状態を管理するためのもうひとつの側面につながっています。タンパク質の摂取がない状態が長く続くと、僕は「低タンパク」状態になります。体がだるく、無気力になってしまうのです。また、衝動的に行動してしまい、ひどい失敗をしたこともあります。そんな時は、感情に支配された別人のような感覚に陥ります。このような失敗から立ち直るには長い時間がかかりましたが、幸いにもタンパク質の量を管理する方法を学び、年齢と経験を重ねるにつれて、そのようなことは少なくなりました。 8年生になった僕は、人間として、読者として、作家として、自分自身をより深く学び続けました。小学生の頃、物語を暗記していた時にどれだけ練習不足だったかを判断することは難しいです。中学はもっと大変で、読解力はまだ遅れていると自覚したとき、不安が大きくなりました。読書が得意だと見せようと、読んでいる本について嘘をついている自分に気がついたのです。自分の能力を偽ることが正しい答えでないことはすぐにわかりました。先生や家族がレッスンを通して助けてくれたので、僕は自信を取り戻すことができました。また、中学時代には素晴らしい友情関係を作り上げると同時に残念な別れも経験しました。学校での人付き合いは常に少し困難なもので、それは高校時代へと続きました。そんな中でも、数学と科学、そして課外活動やスポーツで、僕は成長し続けました。 高校生活 9年生への進級は問題なくできました。再出発という感じでした。しかし、まだ何か物足りなさを感じていました。ゴルフの代表チームに入り、シーズンのほとんどは2位を保ちながら過ごしました。しかし、体格や読み書きなどの処理速度、タンパク質の管理ができていないときの衝動的な行動などが不安材料となり、自分のアイデンティティに苛立ちや戸惑いを感じているとは思いもしませんでした。僕は、自分ではない誰かになろうとしている自分に気づきました。ある時、他の誰かになろうとすることに罪悪感を覚えたため、仲の良い友達を何人か失いました。その結果、成績は落ちましたが、次の学期には元に戻る事ができました。1年生の半ばに新型コロナが流行するまでは、良い方向に向かっていました。 [...]
アケミ カワバタとは?
アケミ カワバタ ウォルト・ディズニーは、「スタートをきる方法は、しゃべるのをやめて動き始めることだ。」と言いました。 私の名前はアケミ カワバタ、現在11歳で、ユタ州のソルトレイクシティに住んでいます。2011年2月16日に生まれたとき、私はひどい黄疸がしばらく続きました。光線療法を5日間ずつ3回受けました。新生児スクリーニング検査、遺伝子検査を含むいくつかの検査の結果、私はシトリン欠損症と診断され、両親ともに保因者であることが分かりました。 診断後、医師は魚由来のサプリメントフォーミュラを私の食事に取り入れました。私はとてもハッピーな赤ちゃんで、社交的で、兄が大好きでした。私の成長過程は周りより少し早い位で、乳児期は概ね順調に過ごしました。 幼少期 園児のころは、社交的でおしゃべりでした。幼い頃から、いとこや友だちと楽しく遊んでいました。体を動かすことが好きで、兄についていきたいと思っていました。幼稚園にもすぐになじめ、友だちをつくることができました。私は同級生より少し背が低かったのですが、特に気にはなりませんでした。テコンドー、サッカー、体操、バレエ、ヒップホップなど、たくさんのスポーツに参加しました。私はとても負けず嫌いで、どの活動も楽しんでいました。 4歳児クラスの最終日に、石を的に当てる遊びをしていた時、私が投げて的に当たった石が運悪く建物にぶつかって跳ね返り、私の眉間に当たりました。私は何時間も食事をしないということができないので、(全身麻酔なしで)起きたまま12針も縫わなければなりませんでした。幼稚園の頃、同級生や両親、兄弟の名前を全部覚えました。あだ名は "市長あけみ "でした。幼い頃、日中はひいおばあちゃんとおじいちゃんが私の世話をしてくれていました。 幼少期からのユニークな特徴 体を動かすこと、忙しくしていることが好きでした。6歳の頃からゴルフの大会に出場するようになりましたがフェアウエイでふざけたのに1位を取ったことが親を怒らせ、一旦お休みになりました。親は子ども以上に勝ちにこだわり、プレーの楽しみを奪う事がある事を学びました。私は4歳でテコンドーを始め、7歳で黒帯1段を取りました。黒帯の試験を受けたのは私が最年少でした。代謝の検査とモニタリングのひとつとして、私は数年おきに認知や社会性に対しての検査を受けていました。兄と同様、読み書きが苦手ですが算数は得意でした。また私は視覚からの記憶力が強く、ピアノの発表会や算数・スペルのテストに役立っています。また、私は整理整頓が得意で、いろいろなものを集めるのが好きです。8歳のころはあるキャラクターを100以上コレクションしていました。 食事と運動 大きくなって、スポーツをする機会が増えたので、最高のプレーができるようにタンパク質量を調整する方法を学び始めました。幼い頃は、他の子と一緒にいるときに、仲間に入りたい一心でポテトチップスなどの炭水化物を食べていました。幼稚園で、タンパク質が不足しているとき問題を起こし先生を怒らせることがありました。園長先生がタンパク質不足に気づきチーズをくれると10分もしないうちに素直でハッピーな私に戻ることができました。それでも周りに合わせたい気持ちもあり、周囲からのプレッシャーを感じ多少苦労しましたが、そのうち、タンパク質と炭水化物を減らすことで体調が良くなることに気づき、加工炭水化物を控えるようになりました。お菓子や飴は食べず、飲料は牛乳と水のみでした。しかし、ラスベガスで行われたバスケットボールの大会の後、できるだけ炭水化物を抜こうと決心しました。ある晩、インNアウトのダブルダブルバーガー プロテインスタイル*を10分間で2つ食べました。 注*アメリカのバーガー店で販売される、パティ2枚、チーズ2枚が、バンズの代わりにレタスで挟まれているハンバーガー。 また、私は炭水化物で満腹にならず、タンパク質は長持ちしないため、比較的食欲が旺盛です。スポーツ選手としては、バスケットボール、ゴルフ、格闘技の大会に出場していました。毎日、朝食にはオートミールを1/2カップ、低脂肪牛乳170g、卵白オムレツ、これにビタミン、MCTオイル、L-アルギニンを加えて摂っています。ラスベガスでのバスケットボール大会の後、私はほとんどの加工炭水化物を食べないと決めたので、パン(低炭水化物のトルティーヤは除く)、チップス、お菓子類は一切食べなくなりました。昼食には、チキンやタンパク質入りのシーザーサラダ、フルーツ、野菜を定期的に食べています。夕食には、170~230g程度のタンパク質(牛肉、鶏肉、魚)と蒸し野菜、サラダを食べるのが定番です。 小学生時代の長所と短所 兄と同じように、小学校のころは、読み書きが好きではありませんでした。字は読めますが、読解が苦手でした。現在は高校進学に向けて、家庭教師の先生と一緒に読書や読解の練習をしています。小学生の間にバスケットボール、ピアノ、テコンドー、ゴルフが大好きになりました。幸運なことに、私は小規模の私立学校に通っていて、先生方が私の体質を理解し快く対応してくれています。私自身は、友だちが人間関係で困っているときに助けてあげられるよう努力しています。今年から中学生になりますが、近況はお伝えしていきたいと思います。 実績と受賞歴 私はまだ子どもですが、これまでにいくつかの賞を受賞し、個人的な功績を残してきました。テコンドーでは、5年間練習して黒2級を取得しました。バスケットボールチームでは、男子と一緒にリーグ戦やトーナメントでプレーしています。テコンドーの国際大会に出場し、金メダルと銅メダルを獲得し、大きな演武会にも参加したことがあります。夏にはいくつかのゴルフトーナメントに参加し、今年の夏にはクラブチャンピオンシップのトーナメントで1位を獲得しました。アクリル画は地元の動物園の絵画展で入選し、そのうちの1枚で青少年賞を受賞しました。私はまだシトリン欠損症で特に困ったことはありませんが、兄と両親がこの体質について学び、私を導き、助けてくれています。 まとめ 私は自分の話を伝えることで、あまり知られていない体質で成長することはたまに難しい事もある一方、子どもでいることは楽しいし、ヘルシーな食生活を送ればメリットも沢山ある事を知っていただければよいな、と思いました。検査・研究助成を通じてシトリン財団は私たちをサポートしてくれており、医師や研究者がシトリン欠損症の改善方法を見つけ、より多くの子どもたちのためになる様、情報やデータを提供していきたいと思っています。私自身は、財団の研究目標をサポートできるよう、参加したり、新しい場所を見に行ったりすることが好きです。 アケミさんの作品をご紹介します。写真をクリックすると拡大され、より詳しくご覧いただくことができます。 [...]
予想外のICU入室からシトリン欠損症の診断へ
ジョー ファン & レベッカ 初期症状 私たちの息子は2570gで生まれ、正期産でした。出産前に医師より「赤ちゃんが小さすぎるようなので自然分娩は危険かもしれない」と帝王切開を勧められ、帝王切開での出産でした。出生後数週間は黄疸がひどく、生後1週間で2回光線療法を行いました。母乳をうまく飲むことができなく早い時期から搾乳と哺乳瓶での授乳が必要でした。また、授乳のたびにガスがたまり、吐き戻しもありました。しかし第一子だったこともあり、この程度のゲップや吐き戻しはよくあることだと思っていました。 診断への経緯 9週目頃から息子は授乳の後に奇声を発するようになり、近所の小児科医にかかる事にしましたがここでは心配ないと言われました。念のためセカンドオピニオンとして小児科医のつてを当たった所、すぐにマラヤ大学医療センター(UMMC)の小児科救急室に入院するよう助言をうけました。UMMCの医師は奇声ではなく、生後9週目になっても黄疸が強い(遷延性黄疸)ことや、肝臓肥大や体重増加不良(成長障害)に懸念を示しました。これらは深刻な赤信号であり、即入院し超音波検査を受ける必要があるということでした。ここからすべてが動き出したのです。 それから2日間、息子は小児肝臓専門医、内分泌専門医、耳鼻咽喉科専門医、外科専門医のチームによって、超音波検査、X線検査、血液検査などの検査を受けました。これらの検査は肝機能を検査し胆道閉鎖症を否定するために行われました。私たちはただの「奇声」であるはずがここまでおおごととなり驚きました。息子は検査中泣き叫び、医療従事者の皆さんには多大な迷惑をかけてしまったと思います。検査の結果95%の確率で胆道閉鎖症は否定されましたが不確定要素は残るということで外科的な評価(葛西手術)を行うことを提案されました。私たちは、その不確定要素のために生後2ヶ月の乳児に手術を受けさせることに抵抗はありましたが結局は48時間以内の緊急手術を受け入れました。 病院では流行病に関する規制があったため、自宅療養しようとその週末は一時退院しましたが息子は全体的に具合が良くなく、疲れている様子で寝てばかりいました。病院での負担が大きかったのだと思っていましたが、そんな矢先、退院後24時間も経たないうちにUMMCの小児遺伝学部門から連絡を受けました。退院前日にうけた血液検査の結果、血中アンモニアの数値が非常に高い、というのです。同時に、「異常に疲れていないか」とまさにその通りの質問もされました。そして遺伝子疾患の可能性が大きい為すぐに病院へ戻り、遺伝病棟に入院し検査するよう指示を受けました。 その夜血中アンモニアが一気に上昇し、当時担当していたUMMC遺伝学チームのテー先生が「これは危機的状況で、すぐにICUに入れる必要がある」と判断しました。私たち親は混乱し、打ちひしがれましたが全てお任せする事にしました。 最初の6〜8時間は小さな体に点滴を入れるのに苦労したようですが3晩ICUでアンモニア点滴と輸血を受けることとなりました。医師にはどんな結果も受け入れられるよう心の準備をお願いします、と言われ、今思い出しても私の人生で最悪の3日間でした。神への祈りと医師団による必死の治療の結果、3日目にはアンモニアの点滴によく反応し、もし乳糖フリーミルクが効けば一般病棟へ移ることができると言われ、事なきを得ました。 この病院で小児遺伝学で著名なトン教授に出会ったことは大きな出来事でした。息子の症例を担当してくれたトン教授のチームには私たちへの連絡からICUのモニタリングまで一手に引き受けていただきました。教授は後日、この週末は息子のせいで病院が一挙に忙しくなってしまった、と冗談交じりに話してくれました。そして血液検査の結果や前夜の行動パターンを見るとこの症状はシトリン欠損症によるNICCDであるということ、また哺乳の状態として吐き戻しが多いことやうまく飲めていないことが更にNICCDであるという裏付けをすることを説明してくれました。そしてシトルリン血症II型(シトリン欠損症)についてや、唯一の治療法は食事をコントロールしながら乳糖除去MCT強化ミルクを哺乳する事である、と説明してくれました。また多くのシトリン患者を診ているが、息子も他の子どもと同じように成長できる、と教えてくれました。 4日目、息子の血中アンモニア濃度は安定し、乳糖除去ミルクにもよく反応することがわかり、一般病棟に移り数日様子を見た後、シトリン欠損症の経験もある管理栄養士が処方した全く新しい食事療法をいただき、遂に帰宅する許可を得ました。 これが息子がシトリン欠損症の診断までの道のりでした。 長文で申し訳ないのですが、このケースでお分かりのように私たち親はほんの些細なことがここまでになるとは夢にも思いませんでした。2日前に少し奇声を発した、ということだけだったのです。もし私たちが救急に行かず、またはUMMCの素晴らしい小児科医が他の疾患の可能性も疑ってくれなければ息子が危篤状態だということも知る由はなかったと思います。まさに生きるか死ぬかの瀬戸際だったと思います。もしお子さんが同じような症状があるならば親御さんには是非この私たちの話をネット検索でみつけ、読んでいただき、先天性代謝異常またはシトリン欠損症の有無を病院で調べてもらうことが非常に重要だと思います。なぜならこの疾患はその稀さ故に医師が最初に疑うことではないためです。 シトリン欠損症の診断がついてから現在まで 3か月~1歳 退院後の大きな変化としてはすぐに母乳をやめ、栄養士の監督のもとMCTオイルを補強したAlimentum®ミルクの哺乳をスタートしたことです。離乳食が始まると栄養士の管理の元、食事の摂取量に応じてミルクの量の調整し、栄養組成をしっかり管理し、NICCD期の間はタンパク質、炭水化物、MCTオイルの割合をうまく保つようにしました。この頃はアンモニア値のモニターと栄養相談を受けるために最初の3か月は毎月外来受診をし、その後は3か月に一度のペースで受診しました。 この食事療法を始めてから数カ月で息子のゲップの頻度は劇的に少なくなり、吐き戻しもすぐに止まりました。息子の体は摂取したものをすべて吸収しようと懸命になったかのように、体重も身長も急速にのびるようになりました。また月齢的な成長にも追いつき、とても活発で賢い小さな赤ちゃんになったのです。 1歳~現在(2歳4か月) 1歳のお誕生日を過ぎた頃NICCD期も終了し、主食も普通食に移行しました。ミルクも1歳半以降は、Alimentum®ミルクからNutren® Juniorミルクに移行し、MCTオイルを補強したミルクを夜間に与えています。状態が安定したので外来も半年に1回に減りました。 他の幼児と同じように13ヶ月目くらいから歩き始め、それ以来順調に成長しています。電車とロケットが大好きで、毎日Cocomelon と Blippi(注:子供向けYouTubeチャンネル)を楽しみ、プレイスクールの子ども用ジムで友達と延々に走っています。 2歳になる頃には、体重が平均のラインに乗りました。これは今までの経緯を考えると大変大きな成果であり、小さかった息子が素晴らしい少年に成長するのを見守れるという事は非常にありがたい事だと感じます。UMMC病院の鋭敏な医師がいなければそんなこともできなかったであろうと思います。 今までの経験から学んだこと 食の好み 息子の毎日の主食は主にお粥(または白米)、MCTオイル添加鶏肉(または同量の他のタンパク質源)です。食間のおやつも大好きで、よりヘルシーなCerelac(注:Nestlé社の幼児用シリアル)や幼児用ライスビスケット、時にはプリングルスやCorntos(注:スナック菓子)のようなあまりヘルシーではない一般的なスナックも食べます。水も2歳児にしては十分な量を飲みます。 [...]