患者体験談

朝妻妃音のインタビュー

朝妻妃音のインタビュー 朝妻妃音のインタビュー 概要 このインタビューでは患者福祉・研究リエゾンの浅見が当財団の会員でもあり、シトリン欠損症患者の朝妻妃音さんをお迎えしました。朝妻さんはどのようにして周囲からこの疾患の理解を得たのかについて語ってくれました。朝妻さんには以前財団とのコラボで小学生向けの資料のイラストを描いていただいたので、そちらが出来上がった経緯についてもお伺いしました。最後にシトリン欠損症を持っている子供達に向けてのメッセージも残してくれました。 朝妻妃音インタビュー 浅見: 初めにご覧いただいている皆様へご自身についての簡単な自己紹介をお願い致します。 朝妻: 私の名前は朝妻妃音と申します。東京在住で22歳です。生後3ヶ月の時に、シトリン欠損症と診断されて日々食事と試行錯誤しながら、今は適応・代償期にいるので、楽しんで生活しています。シトリン欠損症で得た経験から看護師を志し、小児病院で看護師として働いていましたが、今は体調を崩してお休みしています。この休み期間に、イラストの作成や今回のインタビューなど貴重な経験をすることができてとても嬉しかったです。私のインタビューを通して全国にいる皆さんの背中を押し、何かより良いものを与えられたらいいなと思ってこのインタビューを受けることにしました。初めての機会なので、とても緊張していますが、本日はよろしくお願いします。 浅見: ありがとうございます。全然緊張しなくて大丈夫ですよ。早速なのですが、シトリン欠損症とともに生きていく上で直面した課題点がありましたら、ぜひ教えてください。 朝妻: 年齢や学年が上がり、新しい人と出会うたびに交友関係や相手の理解獲得などさまざまな課題に直面しました。まず食事管理についてですが、物心がつく頃には何が食べたいとかどれぐらい欲しいかっていうセンサーのようなものはちゃんと出来上がっていたので、自分の思うままに自由に食事を摂っていました。母から聞いた話なんですが、「幼少期は食が細くて食べさせることに苦労した。」と言っていて、体重や血糖値維持の為に牛乳を一日2L飲んだり、卵、チーズ、ナッツを好んでよく食べていたそうです。年齢が上がるにつれて少しずつ食に興味を持って、好きなものならたくさん食べられるようになりました。その中で、糖質とか甘いものは「食べられる」とか「食べたい」と思って口にしたものでも、後から具合が悪くなってしまうといった失敗も多くありました。その度に学んで自分の知識として蓄えて行きました。今でもその失敗を活かせるときもあれば、再挑戦してまた失敗っていうこともありますが、楽しくやってます。 小学生、中学生の頃はクラスメイトとか友人に、シトリン欠損症であることを全然公表してなかったので、給食では食べられるものやおかずを少し多くもらったり、担任の先生がよく気にかけてくれたり、とても恵まれた環境と学校で過ごしてたのではないかなと思います。炭水化物や甘い物を取らなきゃいけない時もあって、うまくかわせる日もあれば、頑張って食べて帰宅してから具合が悪くなるっていうこともよくありました。でも、それもいい勉強になった出来事だったなと思っています。 高校生になると食事の面だけではなくて友人関係や友人とのコミュニケーションの中で乗り越えなきゃいけない壁が増えたように思います。友人に、シトリン欠損症であることを初めて話す時は、「受け入れてくれるのかな」っていうのと、「これまで築いてきた関係性が壊れてしまうんじゃないかな」っていうのと、「特別扱いして欲しいわけではない」っていう気持ちがちゃんと伝わるのかなというのですごく不安でいっぱいでした。ですが、友人から返ってきた言葉は、「話してくれてありがとう。私もこれが嫌いで、苦手なものとかもいっぱいあるけど、 ほかの自分が好きなものを多く美味しく食べれるから幸せに思ってるし、それと同じ気持ちでしょ?」っていうふうに言ってくれてとても嬉しくて安心したのを覚えてます。今でもその友達とはよく遊んだり、一緒に美味しく食べれるメニューを探す旅に出たり、ものすごく楽しくやってます。何人かのグループに居ると、みんなそれぞれ食の好みが違うから、会話についていけなかったりお店に入っても食べるものがないってなったりした時もあったのですが、そのことをマイナスに捉えることは1回もなかった です。 初めて打ち明ける時に友達に対しては、「私に遠慮して好きなものとか、食べたいものを我慢するようなことはしないでほしい」って言うのはお願いしていました。だから一緒にいてもお互いに変に気を遣うことなく、自分たちが好きなものを好きなように食べたり、私は食べないって分かってるけど、話題を振ってくれたり、私も一緒に食べれる甘いものとかのお店を探してくれて、「一緒に行こう」って言ってくれたり、ちゃんと打ち明けたからこそ、凄く居心地のいい関係性が築けたのかなっていうふうに思ってます。宿泊を伴う学校行事、小学校、中学校、高校でそれぞれあったんですけど、みんなと違うことをするのが嫌で恥ずかしかった小学生時代は、持って行った牛乳とかを全然飲まないで帰って来て、出してくれたご飯の中でやり過ごしてたってこともありました。 中学校になると、給食でのやり取りを通して、ある程度周りが私が好んで食べるものを周知し始めたり、給食交換(おかずとデザートをちょっと交換する)をしていたので、入浴後にみんなで牛乳を飲むっていうことも自然とできるようになっていました。高校になると、当たり前のように、私は牛乳を飲むっていうのをみんなわかってくれていて、みんなの方から「牛乳飲んだ?」とか、あと「自分はこれからコーヒー牛乳飲みに行くけど、ひめは牛乳飲むよね?」という会話がすごく多くて、とても楽しかった記憶でいっぱいです。 高校生の頃に抱いていた夢の中で、「シトリンを通して学んできた経験を活かせるのは看護師なんじゃないか?自分にしかできない看護がある。」と考えるようになって、看護学校に入学したんですが、そのシトリンに対する理解を得るのに一番苦戦したのが、この看護学校時代だったように思っていて、入学した当初に資料や言葉を用いて説明したんですが、これまでのようにうまく理解してもらえたっていう感覚がなくて、実習が始まってからそれがすごい顕著に感じるようになりました。実習を終えて夕方になってくると、体がフラフラしたり、手足に力が入りにくいとか、お腹が痛いって言ったような症状が出てきたんですけど、補食を取れる場所だったり、状況もなかったので、実習が終わるまでひたすら我慢してロッカーに急いで帰って補給するっていうような生活を繰り返してた時期があって、先生にもう一度理解してもらおうと思って考えた時もあったんですけど、その一回目でダメだったから理解してもらえないんじゃないかっていうのと、なんか「特別扱いしてください」って言ってるような気がして、そっちの方が嫌だなと思ってしまって、言えなくなってしまいました。でも、それに反して専門学校で出会った友達には何の特徴もなく、「私はシトリン欠損症だよ」って話せるようになっていて、高校と同じように居心地のいい関係性をたくさんの子と築いていました。これからその実習期間が長くなる上で、どうしたらいいのかっていうのを考えていくうちに、入学時に用いた資料だったり、過去に話した言葉だけでは相手の理解を得るのには、不十分だったなっていう風に感じて、そのときに自分が必要としてた資料だったり、探してた資料がどこにもネットとか、本とかにもどこにもないことに疑問を持って、それなら自分で作ろうと決めて作成していた時に、きっとこの資料はほかのシトリン欠損症の患者さんにも役に立つのではないかなって思いながら、学年が上がった次の年(2年次)に全員の先生に向けてお話しする場を設けてもらいました。そしたら、一人の先生から「よく頑張って資料を作ったね」っていう事と「わかりやすくて何に困っていたのか、何をして欲しいのかっていうのが伝わってきたよ」っていう感想を言ってもらえて、やっとわかってもらえたっていう安心感と、相手に伝えるためにした努力は必ず良い方向に向くんだなっていうのをすごく実感できてうれしい気持ちでいっぱいになりました。その後その資料は、管理栄養士の藤谷先生のサポートもあって、患者会でお話させていただいたり、そこからまた発展して、「わたしのおなか」っていう絵本に変化したりして、すごい自分でもびっくりするような経験に繋げることができて、本当に嬉しかったです。このように年齢を重ねるたびに、課題だったり、苦労したこともあったんですけど、今改めて振り返って感じるのはなんか私に出会い、関わってくれる人たちにとっても恵まれているなあっていうことをすごく感じています。ありのままを受け入れて理解してくれたり、ポジティブな言葉とか意識に変化させてくれる友人が多かったり、診断されてからずっと見守ってくれていた乾先生だったり、アメリカから帰国してから出会った大石先生だったり、何よりどんなときも、シトリン欠損症であることを誇りに思うように育ててくれた両親にはすごく感謝しています。私は過去に、シトリン欠損症であることを母に攻めてしまったことがあるんですけど、その時のことはすごく今でも後悔してるんですけど、でも、その経験があったからこそ、今の私の考え方だったり、シトリン欠損症は病気ではなく一つの個性だとして捉えられるようになったり、そこからみんなも同じように今を楽しく幸せに過ごすためにはどうしたらいいのかって考えて行動できるようになったので、シトリン欠損症として生まれてきて良かったなあっていうふうにすごく感じています。これから先の人生でもいっぱい課題だったり、乗り越えなきゃいけないことがあると思うんですけど、今までの経験を糧にして、私らしく、楽しく乗り越えて行けたらいいなあっていう気持ちと、その経験を皆さんと共有して、誰かの役に立ったらいいなって言う風に思っています。 [...]

日本シトルリン血症の会会長 杉村誠司さんとインタビュー

日本シトルリン血症の会会長 杉村誠司さんとインタビュー 日本シトルリン血症の会会長 杉村誠司さんとインタビュー 杉村 誠司 2008年12月、私はCTLN2を発症した。仕事の研修で泊まりがけだった。夜10時頃、冬だというのに上着を着ずに研修所周辺を歩いているところを目撃された。町内会が夜間パトロールをしていたので声をかけられ、意識を取り戻した。意識障害はCTLN2の典型的な症状である。後にわかったことだが、2008年8月に里帰りした時、実家で夜中に廊下を歩き回っていたそうである。この時は、朝になると私は元通りになっていたので、両親は私が示した異常な行動についてその時は言及しなかった(この時が初めての発症だったようである)。 私はこの病気について聞いたことがなかった。また、会社の研修中に異常行動をおこしていたので、最初は会社の産業医を通じて、てんかん疑いで精神科医を紹介された。そこでは医師は私の病状をよく理解していなかったので、経過を見るために薬を処方するだけの段階だった。多くのCTLN2発症者と同じように、てんかんを疑われてバルプロ酸やテグレトールといった薬を処方されたが、効果はなく、症状は悪化した。 幸運だったのは、神経内科医でシトリン欠損症の患者を診たことのある医師を見つけたことだ。その医師の指示のもと、私のアンモニア濃度を検査したところ、シトリン欠損症である可能性が高いと判断された。この医師は矢崎先生に連絡して、遺伝子検査を提案し、診断を確定してくれた。 矢崎先生の診察を受けるまで、私は、CTLN2発症者(シトリン欠損症患者)が摂るべき食事と正反対のものを摂っており、それが症状に大きな悪影響を及ぼしていた。アンモニアをコントロールするための一般的な対症療法として、タンパク質を減らしてデンプンを多く摂ることを勧められました。これは医師や栄養士の責任ではなく、当時はまだまだ病気に関する情報が十分に知られていなかったからである。矢崎先生に診てもらうまでは、2週間おきに重い症状から軽い症状まで頻繁に出ていた。その間は苦労した。 2009年9月から10月にかけて信州大学で治療のため入院し、薬を調整してもらいました。退院後、一度だけ症状が悪化しましたが、それ以外はほとんど無症状です。また、深刻な異常行動を起こしたことはない。 2009年にピルビン酸ナトリウムの飲み始め、以来14年間継続して飲んでいる。食事の栄養指導も受けました。アルギニンも処方されました。MCTは摂っていません。食事から十分な栄養を摂っていると感じています。 現在は、発症した時と同じ職場でフルタイムで働いています。 シトリン欠損症の特徴である食癖は幼少時よりあった。仕事を始めてからは、明らかに疲れやすさを感じるようになった。振り返ってみると、大阪から東京に日帰りで出張した後は、必ず数日間疲れが残り、出社できずに休暇をとることもあった。病気のことを知らなかったので、学生の頃はお酒を飲む機会もあったが、すぐに吐いてしまった。親戚は飲む人が多いのですが、私は飲めなかった(吐くだけなので、飲みたいとは思わなかった)。両親も飲めたので、体質的に飲めないだけだと思っていた。 食生活からの判断になるが、私の兄弟もCDかもしれない。4人中3人が同じような食生活をしているので、子供の頃に食事で苦労したことはありません。兄弟は誰もCDの検査を受けていません。CTLN2を発症したのは私だけです。 患者会について シトルリン血症の会は2004年に設立された。シトリン欠損症という病名が確立され数年たっていた。 最初からシトルリン血症の会として設立されたのですか? 現在、グループ名は「シトルリン血症の会」です。会員の大半(90%以上)はシトリン欠損症患者です。CTLN1の人も数人います。しかし、治療という面では、この患者会はシトリン欠損症に関する情報提供が中心だと言えます。CTLN2を発症した人たちによって設立されたこともあり、「シトルリン血症の会」という名前になっている。12家族が集まって会を結成した。設立メンバーには成人発症者やシトリン欠損症の子供の家族も含まれていた。その数は徐々に増え、私が入会したときには46家族になっていました。それから10年が経ち、今では100家族以上が患者会に参加しています。 杉村さんが会長になったのはいつですか? 私は2011年から2012年にかけて会長に就任した。前会長と少し話し合った後、私に後任を依頼されたのです。 [...]

11年前に亡くなった兄はCTLN2でした。

11年前に亡くなった兄はCTLN2でした。 11年前に亡くなった兄はCTLN2でした。 鴨下 和也 結婚するまで、食べ物の好き嫌いがあることに気づきませんでした。保因者である両親も食べ物の好き嫌いがあったので、それが普通だと思っていました。母方の家系は食べ物の好き嫌いが激しいのですが、検査を受けたのは母だけなので、母方の家系にシトリン欠損症がいるかどうかはわかりません。父方の家系はあまり強い嗜好はなく、お酒をよく飲みます。 日本では、シトリン欠損症は実際に症状が出ない限り難病に分類されない。だから、風邪をひいただけでも莫大な医療費がかかる。例えば近くの小さな診療所に行って『シトリン欠損症です』と言っても、そもそも医師がシトリン欠損症を知らないから診てもらえない。だから大学病院に行くしかない。しかし、そうすると診断のために、たとえただの風邪であっても、その症状がCDが原因であることを除外するためにあらゆる検査をする。 検査にかかる費用は、一般的な風邪の人の何倍もかかる。だから、私は今でもできるだけ風邪をひかないようにしているし、コロナの制限は緩和されたものの、いまだにマスクをしている。 私の兄は小児てんかんと診断され、生涯治療を受けてきました。大人になってから、私と妻は兄の症状がてんかんではなさそうだと気づき、尿素生成検査と精密検査の結果、CTLN2であることが確認されました。その頃、彼の精神症状は強く現れていた。 生まれたとき、彼は母乳を飲むことができなかった。子供の頃は乳糖の入っていないミルクを飲んでいた。下痢や黄疸があったが、両親はあまり気にせず、3歳くらいになると症状は落ち着いた。小学生になると、てんかんを起こすようになった。 彼は印刷業を営んでおり、昼夜を問わず働いていたが、疲れ方が異常だった。よく眠り、なかなか起きない。怒りっぽく、物忘れも激しかった。しかし、保因者である母や私自身も物忘れがひどいので、それが普通だと思っていた。妻と結婚して、それも普通ではないと気づいた。学校のテストではそれなりに良い点数を取っていたが、集中力がなく、人の話をずっと聞いているのが苦手だった。 2011年12月29日、彼は忘年会で(普段は飲まない)グラス2杯のアルコールを飲んだ。それ以来、彼の体調は急速に悪化し始めた。その5日後、私と妻が正月に帰省したとき、彼が何を言っているのか理解できなかった。牛乳をこぼし、箸で食べ物をつかむことができず、酒を飲んでいないのに常に酔っているようだった。私たちは病院に連れて行こうとしたが、母は彼の行動におかしなところはないと言って断った。 数日後、兄と直接話し、一緒に病院に行った。脳ドックの予約を取り、その日は帰った。ところが、次の検査の前にまた異変が起きた。夜中にトイレに行きたがり、自分の部屋の中をぐるぐる回ったり、冷蔵庫のドアを開けてトイレの電気をつけようとするようになったのだ。それでも母は、夢遊病だと言って救急車を呼ばなかった。 2012年1月中旬、彼は脳ドックのために再び病院に行った。帰宅後、具合が悪くなり、救急車で病院に運ばれた。高アンモニア血症が疑われ、何の説明もないまま高濃度輸液が行われた。それから30分から1時間後、彼は昏睡状態に陥った。そのときの輸液が何であったかはいまだにわからないが、それが彼を昏睡状態に陥れたのだと思われる。私たちは原因が単なる高アンモニア血症であることに納得がいかず、再度検査を依頼した。そこでシトリン欠損症と確定診断された。 その後、亡くなるまで覚醒と昏睡を繰り返した。シトリン欠損症だとわかったとき、肝臓はすでに末期状態で、肝臓移植しかないと言われた。私たちは移植の準備をしたが、ドナーを見つけるのは難しかった。 信州大学を紹介された。2012年3月のことだった。アルギニンを投与され、肝臓移植のドナーが見つかるまでの間、食事管理を行った。冷蔵庫に鍵をかけるという案もあったが、そこまではしなかった。しかし、冷蔵庫を開けて中に入っているものを何でも食べてしまうことがあった。無意識のうちに食べていたようだ。その年の秋頃、もう手の施しようがないと言われ、最期の看取りのために病院を紹介された。そして、転院から数ヵ月も経たないうちに息を引き取った。 彼は生前、自分の体が未来の子供たちや患者様たちのために役に立つのなら、シトリン欠損症の研究に使ってほしいと語っていた。だから、サンプルは今も保管されている。きっと彼もシトリン財団の設立を喜んでいることだろう。 [...]

カーソン・カワバタとインタビュー

カーソン・カワバタとインタビュー カーソン・カワバタとインタビュー 概要 このインタビューでは、シトリン財団の患者エンゲージメント・プログラムマネージャーのシェイマが、カーソン・カワバタさんにシトリン欠損症の患者として抱える課題についてお話を伺いました。インタビューを通して、カーソンさんは「アイデンティティ」と「コミュニティ」というテーマについて触れています。 カーソン・カワバタインタビュー (読みやすさのため、一部編集しております) シェイマ: まずは、ご自身のことを少しお聞かせください。お名前と、ご自身の症状の管理方法について少しお聞かせください。 カーソン: 私の名前はカーソン・カワバタです。米国ユタ州、ソルト・レイク・シティーに住む18歳の高校3年生です。私はかなり小さな学校に通っていて、それが自分の症状を管理する上で大きな役割を果たしていると思います。 私は学校で、幸運にもこの4年間、高校のゴルフ部で競技をすることができました。チームとしてその集合体を作り上げ、なおかつ競い合うというのは、本当に素晴らしい経験だったと思います。たとえ強豪校ではなくても、本当にいい経験だったと思います。 学校以外では、武道もやっています。テコンドーの黒帯を持っています。10年間やっていますが、今は本当に長い間やっているので、トレーニングというよりも、より先生らしくなってきました。これらは私が学校以外の課外活動として行ってきたことのほんの一部です。これらすべての課外活動は、自分のコンディションを管理するための土台を作るのにとても役立っていると思います。 とはいえ、私が成功するために必要なのは、サポートシステムの存在だと言えます。私がシトリン欠損症と診断されたのは、6歳のときでした。そして、その診断にかかわらず、具体的に何をすればいいのかがわからず、医師も私を診断するのに苦労していました。それなので、いつも試行錯誤の繰り返しでした。今振り返ってみると、このような実験的な時期というのはあまり意識していなくて、ただ家族が自分の体の声に耳を傾けることを許してくれているようなものだったと思います。 診断される前、私は祖母にたくさん育てられました。祖母は、私がいつ、どのくらい食べる必要があるのかを学ぶのを助けてくれました。私が話すことができるようになる前、私が祖母に向かって叫んでいたため、好ましい方法ではないですが、そのような方法で祖母は学びました。何度か繰り返すうちに、祖母は日課を作り上げました。私が食べ物を全部食べられるようになる前は、私が叫ぶ30分ほど前にミルクを用意してくれていたのです。その習慣は、私の人生の中でずっと続いています。現在も、2時間おきにプロテインシェイクを飲んでいます。 まとめると、私の家族は本当に強い基盤を作ってくれたのだと思います。あまり、管理をしているという意識はなく、両親や、祖父母が多くのものを与えてくれたと感じています。自分の体調を管理できていると感じられるようになれば、もっと成功するような気がしています。 シェイマ: チームワークが良かったようですね。共有してくれてありがとうございます。日常やこれまでの管理方法について聞くのは本当に興味深いですね。何歳頃からご自身の疾患について理解できたと感じますか? カーソン: 私がちょっと言い忘れていたのは、2歳か3歳のとき、私は成長していなかったということです。つまり、私は非常に大きな成長段階を逃したのです。これは、私がもっと若かった頃に苦労したことの1つで、必ずしも自分の欠損症と結びついていたとは思っていなかったのです。 [...]

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